狭山茶についてABOUT SAYAMA-CHA

狭山茶について

狭山茶は室町時代には製造されており、大和・伊賀・伊勢・駿河と並び、『五大銘茶場』の一つとして数えられ、「河越氏」が支配していたことから河越茶とも呼ばれておりました。
戦国時代、一度衰退しましたが、江戸時代に『蒸し製煎茶』を関東でいち早く取り入れた狭山茶は、他産地にも増して繁栄し、明治時代、横浜開港と同時にいち早く輸出されました。
江戸時代までは米を年貢(税)として納めていたが、南北朝時代(1336~1396)狭山茶は茶が年貢として称名寺に納められていたことが古文書に記されており、これが史料で確認できる埼玉県内最古の記録のようです。
狭山茶は経済的北限と言われております。それは、茶の木が温暖な場所に生息する樹木であり、寒さに弱いからです。北限と呼ばれる気象条件が厳しい場所で育つ茶葉は、色濃く、肉厚となり甘く濃厚でコクのある味が特徴の茶となります。
お茶の歴史

7~8世紀頃、日本では遣唐使(804~806)最澄、空海が茶を中国より持ち帰った頃、アジアにも『茶』が普及し始めました。しかし、すべての『茶の木』は同じであっても、飲む『茶』は地域によって大きな違いがあったようです。現在でもその傾向は見られます。※今日、茶は世界三大飲料の一つと数えられます。『コーヒー・紅茶・マテ茶』
茶の伝来後、国内においては一般に茶が普及することなく一部の僧、貴族などが手に入れる事が出来たようです。そして、400年の時が過ぎ、日本における茶粗 栄西が1214年頃※『喫茶養生記』を源実朝に献上し全国に茶が広がり始め、京都・静岡・狭山と言う現在の三大銘茶の基礎を築きあげました。
※喫茶養生記とは
・・・上下2巻。上では、茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする効能が説かれている。下では、糖尿病、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれている事から、これらを『茶桑経』とも言います。
そして1200年頃 鎌倉時代。寺社の門前には、一服一銭の小屋掛け持ち茶屋が立ち、参詣にきた人を相手に茶を売り、庶民の間にも抹茶が普及していったようです。
時は戦国時代、戦乱の世、茶文化は一度衰退します。全て無くなったわけではなく、織田信長や豊臣秀吉は茶を愛し、嗜んだと言います。特に信長は『茶器、湯呑み』にも大変な興味を持っていたようです。
時代は徳川家康が天下泰平をした江戸時代、抹茶を呑む作法『茶道』が千利休によって確立。1654年江戸時代初期、中国(明)より渡来した隠元(いんげん)によって、当時の中国の文物が数多く伝えられ、その中に『釜炒り製煎茶』『急須』もふくまれていました。
江戸時代中期になり『月海元昭』(げっかいげんしょう)が売茶翁となって京都市中で煎茶を売りました。同時期に煎茶製法の見直し改良がされ、『永谷宗円』により※『蒸し製煎茶』法が発明されました。
※蒸し製煎茶法
・・・茶葉を蒸したあと、揉みながら乾燥させるというこの製法は、売茶翁も感銘を受けたと言います。これが現在の日本茶製造の基礎となったと言えるでしょう。この製法により茶はますます広がって行きました。
狭山茶を広めた豪商、山本山五代目嘉兵衛・徳潤
1690年(元禄三年)山本嘉兵衛によって創業された山本山。創業当時は『鍵屋』と言い、日本橋にて和紙、茶器、茶道具の商いをしていたようです。ここでは五代目嘉兵衛 徳潤、六代目嘉兵衛 徳翁を少しご紹介致します。
狭山茶を広めた豪商の一人である、山本山五代目嘉兵衛・徳潤はこんな事を言っていたようです。
『こんなにおいしいお茶が狭山で採れるとは思わなかった。みんな励んでこれを作りなさい。宇治のお茶に劣るものではない。私もこの狭山茶を広く多くの人に紹介しよう』著・先覚者 村野弥七
狭山から取り寄せた茶は、「霜の花」「雪の梅」と名づけられ販売。これがきっかけで、狭山茶の評価は一気に高まり徳潤が狭山茶の恩人として顕彰されている所以である。
そして、六代目嘉兵衛 徳翁。玉露を発明した張本人。世間の絶賛を浴び、最上級品とされ江戸の名物となり今日に至る。
近代化が進み茶の製造に変化

日本文化が発展・進化し、またその技術も磨かれた江戸時代が徳川幕府と共に終わりを迎え、近代化が進む明治・大正時代、機械化が進み茶の製造にも大きな変化がありました。
全てが手作業であった製茶は、西洋医学の権威として知られていた高林謙三により改革されました。(参照)
全盛期を迎えたと言っても過言ではない日本茶、そして狭山茶は大東亜戦争(第二次世界大戦)が勃発し完全に生産、輸出が衰退してしまいました。しかし、戦後、高度経済成長と共に、少しずつ茶製造を取り戻して来た入間市は絹糸か茶葉かの選択を迫られる状況となって行きます。それは、当時茶農園に使われていた農薬(現在は使われておりません)が、蚕を殺してしまうためでした。(諸説あり)
茶を選択した行政は、『味の狭山茶』として過去の栄光を取り戻すため、そして『色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でトドメさす』の詩のように、濃厚な味、コクを重視した『深蒸し茶』の真髄を極めるため日々研究を重ねている所であります。